鬼滅の刃がなぜここまで売れたか。魅力について、一つの視点から考察する。

 

滅の刃について話をしよう。

 

「なんか名前は聞いたことあるな?」

という方から

「今更?知ってるしw」

という方まで様々かと思うが、客観的な事実として、「今日本で一番売れている漫画は鬼滅の刃である」という事実が、数字として、ある。

1月27日~2月2日のオリコン週間ランキングで、1位から18位まで全て鬼滅の刃だった。

 

―完―

 

鬼滅の刃の魅力を一つも無駄な言葉を使わず説明するなら、上記の「完」である意味伝わる。

しかしここは僕のウェッブサイトなので、僕の個人的な主観も添えて。

改めて「鬼滅の刃」の魅力、ヒットの要因などを分析というか、考察していきたい。

鬼滅の刃について話す前に

と、ここで話は変わりますが、現代における最も有名なスピーチであると言われる、スティーブ・ジョブズのスピーチをご存じでしょうか。

 

大丈夫、気はたしかです。

その有名なスピーチとは、彼がスタンフォード大学の卒業式に招かれた時に卒業生への式辞として発表されたもので、今なお多くの学生、ビジネスパーソンの心を掴んで離さない、名スピーチとして広く知られています。

なぜこのスピーチが多くの人の心を掴んだのか。

お話は、大きく3つに章が分かれており「点を繋いでいく」、「愛と喪失」、「死について」というテーマに沿って展開されています。

その内の一つ、「愛と喪失」の話を、僕はこの「鬼滅の刃」を読んでいてふと思い出しました。

 

「戻る」ボタンに目をやったあなた。もう少しだけお付き合い頂けると嬉しい。

 

その「愛と喪失」について簡単に内容を説明します。

ジョブズは、一人のビジネスパーソンとしての階段を昇っていく過程において、様々な思惑の行き違いから、大きな喪失を抱えてしまうことになりました。

簡潔に言うと、自分で作った会社をクビになりました。

しかし、彼は自分の愛するもの、「信念」を糧に再起することができ、結果的に成功した。というお話です。

これが、「鬼滅の刃」とどう関係するのか。

 

前置きが大変長くなりましたが、この記事は、漫画「鬼滅の刃」の書評記事です。上記の異様に長くちょっと何言ってるかわからない前置きに、少しでも何か引っかかるものがあった方は、是非ご一読ください。

 

繰り返しになりますが、この記事は僕の主観的な妄想によってその多くが構成されている、ということは事前に注意書きとして添えておきます。

 

“時に人生は、唐突にあなたの頭をブロックで殴ることがある。しかし、決して信念を失ってはならない。なぜならその信念こそが、あなたを前進させる、唯一のものだから。”

―スティーブ・ジョブズ―

鬼滅の刃、その愛と喪失

鬼滅の刃こそはまさに、愛と喪失の物語だ。

まず。どんな物語なのか。あらすじを簡単に紹介しよう。

大正時代を舞台に、主人公が家族を殺した「鬼」と呼ばれる敵と戦い、鬼と化した妹を人間に戻す方法を探す姿を描く。

引用元:wikipedhia(一部改変)

本当に簡単にしすぎた。

舞台背景は実はありがち。物語をものすごく簡潔に言ってしまうと、主人公・竈門炭治郎が、仲間と共に修行に励み、悪の親玉・鬼舞辻 無惨(きぶつじ むざん)打倒を目指して戦う。というものだ。

では、主人公が家族を失ったことが、「喪失」を指すのか。

妹が鬼に変えられてしまったことが「喪失」なのか。

当然それも大きな一つ。しかしそれだけではない。

ない。

これは読者が出会った最初の、ただ一つの喪失に過ぎなかった。

詳細は後述する。

主要キャラクター


話は少し変わって、実はこの「鬼滅の刃」。味方サイドのキャラクターが非常に”立っている”作品としてもよく知られている。

「鬼殺隊」と呼ばれる彼らは、無惨を倒すために力を合わせ「鬼」に立ち向かっていくのだが、そのキャラクタービジュアルや戦闘シーンの迫力に加え、それぞれの戦いに赴く背景なども心情と共に細かく描写された事で、読者からの反響を得た。

中でも特に主人公・竈門炭治郎と同期入隊の「我妻善逸」、「嘴平 伊之助」、「栗花落 カナヲ」、「不死川玄弥」、そして、「鬼殺隊」の最精鋭部隊である「柱」の面々が人気を集めている。

 

しかし、読者人気の高い彼らは、常に活躍の場面と共に描かれているか言えば、そうでもない。

ここから少しネタバレになってしまうが、作品が進行するにつれ、彼らは戦いにおいて大いに苦戦し、結果何人かは帰らぬ人となり、残った面々も多くが後遺症が残るような重傷を負う。

 

では、こういった人気の高い、そして圧倒時な強さを誇った、共感を呼んだキャラクター達の戦線からの離脱が「喪失」か。

これも大きな「喪失」の一つ。しかしまだ、これだけでもない。

そう、ここまでは、言ってしまえば似た作品がいくつもある。

読者はそういった「喪失」には慣れているとすら言えるかもしれない。

鬼滅の刃で描かれる「喪失」

「鬼滅の刃」の刃は「愛と喪失の物語」だと言った。

この「愛と喪失」こそが、「鬼滅の刃」をここまでの人気作品に押し上げた要因だと個人的に理解している。

仮に「アニメの作画が神」という理由で大ヒットになったのだとしたら、漫画を買い集めるという行動を呼び起こすだろうか。

本質は、「ストーリーに魅了された」と考えるのが自然ではないか。

 

では、僕が最も大きな「喪失」だと考えたものはなにか。

それは、敵対する相手、つまり「鬼」の喪失だ。

 

もし「鬼滅の刃」という作品を知らぬままここまで記事を読み進めた方がいては困る(いない)ので簡潔に説明を入れておくと、

「鬼滅の刃」は物語のラスボス・「鬼舞辻 無惨」にたどり着くまでに、少年漫画よろしくその部下である「鬼」を倒していくことになる。

しかしその「鬼」は、実は元人間であり、無惨に「鬼」に変えられてしまったいわば被害者とも言うべき「人」たちなのだ。

ここがこれまでの少年漫画作品とは一線を画す点の一つ。

しかしながら、当然泣きながら主人公と戦ったりはしない。

多くの鬼は戦闘時は既に思考が「鬼」に支配されてしまっており、炭治郎を含めた「鬼殺隊」を殺す為に「鬼」としての全能力を行使する。

 

しかし、決着時。

いまわの際に、彼らは人間であったことを思い出す。まるで、人間が死の間際に見ると言われる走馬灯の様に。

 

彼らもまた、その多くが残酷な運命に翻弄された結果、「鬼」として二度目の生を受けてしまった者達だったのだ。

 

主人公・竈門炭治郎の台詞で、象徴的なセリフが一つある。

鬼殺隊の「柱」の一人が、「鬼」の亡骸を踏みつけ無情に断罪しようとした際の台詞だ。

鬼は人間だったんだから

俺と同じ人間だったんだから

 

足をどけてください

 

醜い化け物なんかじゃない

鬼は虚しい生き物だ 悲しい生き物だ

「鬼滅の刃」第5巻より引用

そう。この喪失を一層際立たせているのは、この主人公。竈門炭治郎の優しさ、そして純粋さだ。

 

百戦錬磨の「柱」達が、その歴戦の過程で削がれてしまったもの。誰よりも純粋で、数分前に自分を殺そうとした相手の心情すら慮ることができる、炭治郎の優しさが、「鬼」の喪失を殊更に強調している。

 

炭治郎の家族が亡くなるのも大きな損失、「柱」達が離脱していくのも大きな喪失であることは間違いない。

 

しかし、当然ながら頻度は多くない。

読者視点で言えば、いくら大きな喪失と言えど、一度や二度なら“耐えて”いける。

大きな悲しみも絶望も、次の希望が見えてくるにつれ、傷はすこしづつやわらぎ、薄くなっていく。

しかし、通常の少年漫画で言えばいわば「雑魚戦」においても、かなりの頻度で「喪失」が用意されているのだ。

繰り返しになるがそれは、「鬼殺隊」だけでなく、「鬼」の心情にスポットライトを当てる戦いもあるからである。

 

作者の巧みな描写によって、読者は「鬼」に一時的にでも、深く感情移入してしまう。

「こんな事情があったのか・・」

「なぜ彼が『鬼』として選ばれてしまったのか・・」

一人の「元」人間の残酷な運命。

それを包み込む炭治郎の慈愛。と「救い」。

鬼滅の刃 第11巻より引用

そんな感情の揺さぶりにより、戦闘は無事に「鬼殺隊が勝った」という事実であるにもかかわらず、そこにはなぜか、大きな悲しみや感動が呼び起こされる。

 

「この世に絶対的な悪など存在しない」と述べたのは、誰だったか。

まさに「鬼滅の刃」にはこれがぴったりと当てはまる。

唯一存在する絶対悪と言えば「無惨」で、その他の者は全員が立場は違えどそれぞれの事情や思惑を胸に、悲しみを背負って闘っているのだ。

 

鬼滅の刃で描かれる「愛」

では、「鬼滅の刃」は登場人物全員が可哀想で、悲劇的な物語なのか。

これも違う。

「喪失」だけの物語ならば、誰も彼もが失うだけの物語ならば、ここまで万人の評価を得ることはできない。

 

最初の記述に戻るが、「鬼滅の刃」は「愛と喪失の物語」だ。

「喪失」は必ず「愛」と表裏一体で表現されているのだ。

言い換えれば、「鬼」は喪失の場面においても、そのすべてが悲劇的ではないのだ。

 

自身の生の喪失、過去の思い出の喪失、すべての喪失は、喪失のまま終わらせられることはない。

彼らは死の間際、過去を振り返る。

その過程で、他の誰かの愛を思い出し、救われ、もしくは自分自身の信念に立ち返り、「鬼」としての生を終える。

自らの生が終わる瞬間に、この表現が適切かはわからないが、彼らの多くは、闘いの果てに何かしらの「救い」を見て、消えていけるのだ。

 

ここでも少し内容について触れると、多くの場合、その「愛」は家族愛である場合が多い。

読者層が幅広いのはこういった要素もあるのではないかと考える。

「鬼滅の刃」の世界が、恋愛関係だけを「愛」と呼ぶ世界ならば、きっとここまでの記録的なヒットとは恐らくならなかっただろう。

 

例えば大切な子供をもつ親、親を敬う子供、もしくはその逆。

そういった様々な立場の人たちの共感を、主人公側ではない、「鬼」が演出するのだ。

これは、今までの少年漫画の歴史においても革新的なことの一つであることは間違いない。

「愛と喪失」を振り返る

話は冒頭に戻る。

スティーブ・ジョブズの「愛と喪失」は、

どんな喪失に見舞われても、自身の愛するものを、「信念」をつらぬけ。愛によって人は前に進むことができる。

というメッセージだった。

「鬼滅の刃」に登場するキャラクター達もまた、敵も味方も善悪も関係なく、皆自身の愛するものを取り戻す為、もしくは信念を貫く為に闘う。

その過程で何かを失っても。

それを糧にして強くあろうとする。

 

しかしながら、それぞれの立場が真逆であったとしても、どちらが絶対的に正しいとは言い切れない。そんな葛藤さえも読者に想起させる。

幾度となく繰り返される「愛と喪失」。「鬼滅の刃」とは、そういう物語だ。

 

まとめ

「「鬼滅の刃」はアニメの出来がよかったから売れた」

「キャラクターがカッコいい、可愛いから売れた」

「主題歌が素晴らしかったから売れた」

 

この記事はそのどれをも否定するものではありません。

どれが欠けてもここまでの爆発的なヒットにはならなかったと考えます。

しかし、「鬼滅の刃」の根幹に流れているものは、漫画という枠を超えた、明確な「ヒューマンドラマ」ではないかと。

僕はそんな風に思って(妄想して)います。

そして、終幕への道程

「鬼殺隊」は自身の愛するもの、愛する世界の為に、鬼と戦う。何度倒れても、何度失っても。

自分が経験した「喪失」を、他の大切な誰かに、被らせたくない。負わせてはいけない。執念にも似た、その一念に拠って。

「喪失」の経験こそが、彼らを強く、鋭くしているのだ。

 

そして元人間である「鬼」も、失われた愛情、もしくは他者からの評価、自身の能力の喪失を埋める為に、取り戻す為に、自らの信念に従って戦う。

それぞれの信念を懸けたこの戦いの果てに、鬼殺隊は、この愛と喪失の物語の唯一の例外、絶対悪・鬼舞辻 無惨に辿り着けるのか。

実は物語のクライマックスは、もう現在進行形で、すぐそこまで来ている。

 

もうすぐ一つの物語に幕が下りる。

この悲しく、美しい物語の結末を、決して。見逃してはいけない。

 

 

余談だが、作者の吾峠呼世晴先生は、少年ジャンプの巻末コメントもなかなか味わい深いものがある。一つだけ紹介する。

 

「焼き魚を食べるとき力みすぎて足首がいかれた。魚は美味しいけど骨が怖い。」2019年45号巻末コメントより

 

 

 

巻末コメントも、見逃してはいけない。

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